川村 みきをのメモ帳

日々のアウトプットをメモっています。

先につながる宝物CR083

f:id:kmikiwo:20210626130031p:plain

親に先生に会社に豊かな社会の環境に国に
依存しきった価値観でこれまでを組み立て
てきた【井の中の蛙】だったということを
痛感したわたしは【依存しきった価値観】を
打ち壊す為に渡米したが、すぐに強制送還
されてしまう。

このままこの先ずっとLoser(負け犬)と
して生きていく選択したくはなかったわたし
は再度渡米する。

新しい行き先はアメリカのテキサス州
キングスビルという片田舎の街にある大学。

そこで出会ったのはバングラデシュという
国からきたムハタグさんというわたしと同じ
年齢の青年。

1日の生活費が2ドル(約240円)という国
で暮らしてきた彼は一日一食がギリギリで
使っている道具も粗悪品だった。それでも、
国の為に村の為に必死で勉強をしていた。

そして日本の事に興味を抱いた彼から、
様々な国からやってきた友人や知人、
クラスメイトからわたしは質問攻めに合う。

【質問】を受けて『答え』を絞り出す、
というこの行為はなんていうか、これまで
ずっと隠し続けてきた【見て見ないフリ】
をしてきたことが少しずつ露呈していく。


露呈した【見て見ないフリ】を認めながら
先に進んでいくという、この行為はいわば、
化膿した膿(うみ)を絞り出すという行為
にとても酷似していてそれは一瞬の大きな
心の痛みを伴う。

しかし化膿した膿(うみ)が絞り出された
その後は自身の治癒力で治癒されていく。

そして傷跡として自分自身を認めることで、
とても癒されていく。


痛みが去った後はずいぶん心が身体が軽く
なった。

これまでずっと苛まれていた何かこう、
【満たされない想い】というのが消えた。


これはつまり自身の為に欲するという永遠
に【満たされることの無い想い】が消えた
ということだ。


この時期のわたしの行動の全ては純粋に、
『ただ相手に伝えたい』といったそんな
想いだけだった。


テレビもネットもお洒落なお店もない、
そんな異国の土地で【思考】をフル回転
させて自身のうちにあるものを掘り出し
続けた。


【質問】を受けて『答え』を絞り出す


という単純なことの繰り返しがいつの間に
かわたしの中にあった【見て見ないフリ】を
してきたことや淡い欲望、そしてこれまで
親に先生に友人や知人や他人やテレビなど
から刷り込まれた様々な思想や価値観を
全て掘り出し尽くしてしまい、本当の意味
で空っぽになっていた。

自身の意志とは関係ない刷り込みの上に、
【見て見ないフリ】をしてそこから逃げた
時の感情、そして、他人との比較で生み
出されていった満たされない淡い欲望。


こういったものの前提の上に生きてきた
から思うように人生が進まなかったという
ことにハッキリと気づいた。


一言で言えば、『長年溜まり続けてきた、
よどんだ澱(おり)が出尽くした感覚だ』


空っぽなんだけど何ていうかとても、
満たされた清々しい気分を味わった。

まるで生まれたての赤ちゃんみたいだった。


ピュアで純粋な気持ちで過ごせた。


『ここからもう一回始めようか』


心からそう思って新しく情報を吸収して
いった。


その時に感じたのは、これまでは新しい
情報を知ると過去の価値観に照らし合わせ
「これはいい・悪い」と決め付けていたが、
この時は過去の古い価値観が無くなって
いたので、物事の本質を掴むことが出来た。


これは大きかった。


過去の古い価値観というフィルターを
通してみる物事はいつもくすんで見えて、
本質をなかなか捉えられなかったが、
フィルターが無いとこうもクリアに本質が
見えるものなのかという事に驚愕した。


この時にその後も現在も変わることがない
わたし自身の真のGOALが定まった。


このアメリカに居た1年間の間にもらった
多くの【質問】はその後、日本に帰国して
からも節目節目ごとに繰り返し自身に問い
続けてその時その時の『答え』を導き出し
その『答え』に従ってこれまでやってきた。

そしてその『答え』はいつも自分自身に
とって『楽ではなかったが楽しかった』
信じられないような奇跡を何度も体験した。


いつもありがとうと思った。

失敗も多くしたが、

いつも感謝でいっぱいだった。


もらった【質問】の数々はノートやメモの
切れ端に乱雑に殴り書きしたようなもの
だったが、帰国してそれを整理して、
自分専用のノートに書き写していった。


そしてそのノートに『答え』を書いた。


そこから就職する前に転職する前に独立
する前に悩んだ時に迷った時に満たされず
悶々とした時に【質問】に繰り返し
『答え』ていった。


そうすると不思議といい方角に導かれた。


2009年にsbccを始めて直ぐにつまづいた時、
わたし自身はもちろんチームのメンバーにも、
このノートの【質問】を書き写して、
それぞれが、それぞれの『答え』を書き込
んでいった。


いつからかは覚えていないが、そのノート
を誰かが【sbcc|未来ノート】と言った。

 

 


to be continued

『答え』を絞り出すということCR082

f:id:kmikiwo:20210626130031p:plain

親に先生に会社に豊かな社会の環境に国に
依存しきった価値観でこれまでを組み立て
てきた【井の中の蛙】だったということを
痛感したわたしは【依存しきった価値観】を
打ち壊す為に渡米したが、すぐに強制送還
されてしまう。

このままこの先ずっとLoser(負け犬)と
して生きていく選択したくはなかったわたし
は再度渡米する。

新しい行き先はアメリカのテキサス州
キングスビルという片田舎の街にある大学。

そこで出会ったのはバングラデシュという
国からきたムハタグさんというわたしと同じ
年齢の青年。

1日の生活費が2ドル(約240円)という国
で暮らしてきた彼は一日一食がギリギリで
使っている道具も粗悪品だった。それでも、
国の為に村の為に必死で勉強をしていた。

そして日本の事に興味を抱いた彼から、
様々な国からやってきた友人や知人、
クラスメイトからわたしは質問攻めに合う。

一緒にヒューストンに買い物に出かければ、
その道中様々な【質問】と『答え』のやり
とりがなされる。

学校のイベントで海に出かければそこでも、
また様々な【質問】と『答え』のやりとり
がなされる。


いつしかわたしは【質問】されたことを英語
でメモってその後『答え』を考えるという
のが習慣になっていた。

そして、カッコつけない、飾らない、
偽らない『答え』を自身の遠い記憶の中
から掘り出していた。


それは時に辛く苦しい作業だった。


遠い過去に体験したことやそこで感じた
様々な出来事を記憶の中から掘り出すのだ。

それも異国で母国語ではない国の言葉で
相手に伝えていくのだ。


最初は上手く出来なかった。

慣れない作業に戸惑いを覚えた。


更に情報を収集する為のテレビもラジオも
無い。ましてパソコンもインターネットも
まだこの頃はほとんど知らなかった。

あるのは英語で書かれた学校の教科書と
日本から持っていった僅かな小説だけだ。

辞書もあえて持っていかなかったが必要に
感じたので現地で調達した。それは英和で
も和英でもなく、【英英辞典】だったが。

英語の単語の意味が英語で書かれているわ
けだ。日本の国語辞典みたいなものだ。


そして会話をする相手は様々な国の人達。

当然、日本語を使う機会は極端に減少する。


近くにコンビニもショッピングセンターも
カラオケボックスも居酒屋もネットカフェ
も本屋もお洒落なカフェも何も無い。

当然、携帯電話なんかも無い。

これまで持っていた様々な娯楽や便利な
道具そして、言葉が通じる友人たちという
そんな環境がガラリと変わりすべてが無い。


そんな状況下で唯一、残ったものがあった。


それは【思考】だ。


自身のうちにある【思考】だけは
フルに稼動させることが出来る。


【思考】だけはいつも自由だった。


この時に気づいたのだけど、これまで、
親や先生やテレビや友人や知人や他人から
何かを言われつづけてきたことに影響を
受けすぎていた。

そして便利になりすぎた日本の国のなかで、
自分自身の価値観を見失ってしまっていた。

そのためいつしか自身ではあまり物事を
考えなくなっていて常に受動的だった。

考える為の【思考】がいつのまにか、
錆付いてしまっていたのだ。

だから、いざ何かを考える時が来ても、
どうやって考えていけばいいのかが、
わからなかった。


【思考】の機能が損なわれていたのだ。


だから最初の頃は常にイライラしていた。


【思考】を処理できない自分自身にいつも
憤りを感じていた。

そしてやっと答えを搾り出してもそれが、
単なる自身の欲望でしかない。

こんな風になりたい、あれが欲しい。
もっといい暮らしがしたい。

隣では村を国を背負ってきている人がいる
というのに自身の心の醜態さに愕然とした。


【質問】を受けて『答え』を絞り出す、
というこの行為はなんていうか、これまで
ずっと隠し続けてきた【見て見ないフリ】
をしてきたことが少しずつ露呈していく。

露呈した【見て見ないフリ】を認めながら
先に進んでいくという、この行為はいわば、
化膿した膿(うみ)を絞り出すという行為
にとても酷似していた。


一瞬の大きな心の痛みを伴うのだ。


しかし化膿した膿(うみ)が絞り出された
その後は自身の治癒力で治癒されていく。

そして傷跡として自分自身で認めることで、
とても癒されていく。

 

 

 


to be continued

 

質問されるということCR081

f:id:kmikiwo:20210626130031p:plain

 

親に先生に会社に豊かな社会の環境に国に
依存しきった価値観でこれまでを組み立て
てきた【井の中の蛙】だったということを
痛感したわたしは【依存しきった価値観】を
打ち壊す為に渡米したが、すぐに強制送還
されてしまう。

このままこの先ずっとLoser(負け犬)と
して生きていく選択したくはなかったわたし
は再度渡米する。

新しい行き先はアメリカのテキサス州
キングスビルという片田舎の街にある大学。

そこで出会ったのはバングラデシュという
国からきたムハタグさんというわたしと同じ
年齢の青年。

1日の生活費が2ドル(約240円)という国
で暮らしてきた彼は一日一食がギリギリで
使っている道具も粗悪品だった。それでも、
国の為に村の為に必死で勉強をしていた。

そして日本の事に興味を抱いた彼から、
わたしは日々質問攻めに合う。

しかし、わたしは英語力の問題の前に
コミュニケーションが取れなかった。


その時、25歳のわたしは日本の事も世界の事もそして
自分自身の事についてもほとんど何も答え
られなかった。


これはショックだった。


これほどまでに自分自身について何も
答えられないとは…これまでの人生で
得てきた事や考えて決断した事、辛かった
事、嬉しかった事そしてそこから得たもの
や思想などがまるで思い浮かばない。

それだけその場その場の思いつきやただ、
流されるままに生きてきたんだと感じた。


『何故?アメリカに来たの?』という単純
な【質問】の答えが言えなかった。

ムハタグさんの壮絶な『回答』を聞いた後
にわたしが「ダメな自分を変えるため」とか
言えないし、何か違うとも感じていた。


つまり自身の答えに確信が持てないのだ。


他の国の友人からも違った【質問】を受け
たが、ちゃんと答えられないから、
いつもメモを取ってじっくり考えていた。


最初の頃はずいぶんと落ち込んだ。


「自分には何もないんだな・・・」


それでも学校の授業ではお互いの国の事
について英語でプレゼンテーションをして、
その後で他のクラスメイトが個々に
【質問】を投げかけてくるというのがある。

カフェテリアに行けば様々な国の人達が、
コミュニケーションを取ってきてくれて、
お互いの国や育った環境や価値観について
語り合う。

考えてみればそれは当然の流れなんだろう。

みんな世界中から公用語の英語を学ぶ為に
渡米して他の国々の文化や価値観を交換
し合うというのがこの大学の主たる目的
なんだから。


【質問】を受けて『答え』を探す日々。


この時にわたしの中で【質問】の『答え』
を探すという新しい思考回路が創られた。


最初の頃は気の利いた答えやカッコいい
答えなどを意識したが何を言っても
相手の反応が薄い。

あの情熱の国のスペイン人ですら薄い。

途中で何を言ってもこんなに反応が
薄いのはきっと英語力が無いからだ。

どうせ伝わらないんだ、だったら『答え』
を考えるんじゃなくて出来る限り絞り出し
てありのままを答えよう。

どうせここはアメリカだ、何も恥ずかしい
事なんてない。


日本での失敗談はここに置いていこう!


そう思ってわたしはテキサスに来る前に
ロサンゼルスにボランティアで行って、
わずか1ヶ月足らずで強制送還されたこと、

関西から東京に出てきて旅行の仕事に
就こうと大学まで行ったが何か違和感を
感じて悶々とした日々を過ごしたこと、

大学では英文学科を選択していて英語には
自信があったのにまるで通じない英話しか
話せない自分自身に落ち込んだこと、

カフェテラスのビュッフェの主食がマメか
パンなのにどうしても馴染めず毎日、この
マメを米に見立ててわざと小さなマメばか
りを選んでお皿ではなくスープカップ
よそって日本のご飯みたくして食べている
ということ

など拙い英語で必死になって喋った。

すると不思議なことに相手の反応が変わっ
たのだ。

これまで「ふーん」と首を傾げてたのが、
「ふんふん」とわたしの話を聴いてくれる
ようになった。

そしてまた更なる【質問】をくれた。

そしてわたしは思ったまま、感じたままの
わたしに取って真実を『答え』として相手に
伝えた。

いつしかそういったコミュニケーションが
普通になっていった。

 

 

 

to be continued

 

異文化コミュニケーションCR080

f:id:kmikiwo:20210521120934p:plain

親に先生に会社に豊かな社会の環境に国に
依存しきった価値観でこれまでを組み立て
てきた【井の中の蛙】だったということを
痛感したわたしは【依存しきった価値観】を
打ち壊す為に渡米したが、すぐに強制送還
されてしまう。

それでも、そのままこの先ずっと逃げ続け
てLoser(負け犬)として生きていく道を
選択したくなかったわたしは再度渡米する。

新しい行き先はアメリカのテキサス州
キングスビルという片田舎の街にある大学。


そこで出会ったのはバングラデシュという
国からきたムハタグさんというわたしと同じ
年齢の青年。

1日の生活費が2ドル(約240円)という国
で暮らしてきた彼はアメリテキサス州
物価では一日一食がギリギリでその他は
食パンと水で過ごし、筆記具も書いている
途中でインクが出なくなるような粗悪な
ペンや薄いザラザラのノートを紙袋に入れ
て、衣類もほとんど無い状態。

睡眠時間も一日3時間~4時間だった彼は、
国の為に村の為に必死で勉強をしていた。


そしてその成果はみるみる形になって
現れていった。

3ヶ月も経ったころには彼の英語力は
わたしを遥かにしのぐほどになっていた。


それでもムハタグさんはちゃんとわたしに
接してくれていた。

ムハタグさんは日本の農業というものに
とても興味を持っていた。

そしてアメリカの図書館で調べられる
日本の文化についていろいろ調べていた。

ムハタグさんは日本には一度も行った事は
無かったが、本で調べられる知識は既に
わたしを上回っていた。

そしていろいろとわたしに聞いてきてくれる
んだけど、わたしはいつも答えに困った。

そんな質問は今まで受けたことが無かった。
だけどわたしは必死になって考えて答えた。

何か分からないけど、この時のわたしには
もの凄い焦燥感があったからだ。

それはわたしの【依存しきった価値観】では
何一つまともに答えることが出来なかった
からだ。

ムハタグさんのように同じ年齢で、国を
村を背負ってアメリカに渡米して命がけ
で英語を農業を学ぼうとしている人間と
わたしのように人生の方向性を見失っている
人間では、対等に会話をすることそのもの
がなんていうか苦しい。

相手の情熱や志や信念に触れれば触れる
ほどにその熱気や魂にこちらが焦げ付き
そうになる。


それでも全く嫌な感情は無かった。


それは純粋すぎる程のムハタグさんの
信念にわたしはどうしても答えたいと
思ったからだ。

だけどその時のわたしのスキルや実力では
ムハタグさんの期待に答えることなんて
到底出来なかった。

あまりにも世界の事、日本の事、そして、
自分自身の事を知らなすぎたのだ。

それでも、まともにコミュニケーションを
取れるようになる為に、相手の国の文化を
相手の事を理解しようと努力した。


『英語を学習する前にまずは相手の事や
相手の国を知りそして興味を持つことだ』

『英語というのはそれを伝える手段だ』


わたしはそう考えて、様々な人種の中に飛び
込んだ。

大学のカフェテリアで積極的に見ず知らず
の人の隣の席に座り、必死で片言の英語で
話しかけた。


『Where are you from ?』
(どこから来たのですか?)


と聞きまくった。


そして、アメリカ人、中国人、韓国人、
マレーシア人、スペイン人、アラビア人、
イタリア人、オーストリア人、台湾人、
フランス人など様々な国の人と友達に
なった。


もちろん共通の言語は英語だがわたしの英語
の能力ではまともに会話が出来ない。

それでも何とか喰らいつき、
コミュニケーションを取っていった。

そしてそのコミュニケーションのほぼ
全てが相手からの【質問】だった。

きっと最初は「うっとおしい奴だな」
と思われたことだろう。

考えれば当然の事なんだが、
「どんな人間なのか分からない相手」
と仲良くなんて出来るはずもない。
そうなると最初は当然相手の事を探る。

だからわたしは【質問】攻めにあった。

みんなJapanという国の名前は知っている
が、それが地球のどこにあってどんな人種
で何を考えてどんな暮らしをしているかを
知らなかった。

だけどみんなJapanという国には多少なり
とも興味を持っていたみたいだ。

だから、いろいろ【質問】をしてくれた。

そしてわたしはその【質問】に答える為に、
朝も昼も夜も考え抜き、出した答えを英訳
して必死で伝えた。

何故なら、その【質問】が25年間今まで、
一度もされたことが無い深い【質問】
ばかりだったからだ。

そしてこの時に受けた数々の【質問】が
わたし自身のその後の人生に大きな影響を
及ぼすこととなる。

 

 

 

to be continued

 

もしも今日地球が終わったらCR079

f:id:kmikiwo:20210521120934p:plain

中央アメリカのメキシコを中心に3世紀~9
世紀に最盛期を迎えた古代文明マヤ文明

このマヤ文明には【マヤ暦】という太陽暦
太陰暦、金星暦を組み合わせた複雑な
暦法が古くから発達していて神話を用いた
知性的な文化を発展させてきた。

このマヤ暦というのが3世紀~9世紀の時代
の文明では考えられないほどの高度で完璧
な暦だと言われている。


そんな完璧な暦が『2012年12月21日』を
最後にプッツリと終わっているのだ。

正確で完璧を誇るそんなマヤ文明のマヤ暦
が『2012年12月21日』を世界の終わりと
告げている。

この『2012年12月21日世界滅亡説』は、
世界中で話題になっている。


もちろん、わたし自身もそんな話は90%は
信じていない(10%は信じているのかっ)

でも、でも万一もし本当に今日世界が終わ
ったとしたら、幸せに終われるだろうか?

と何度も考えてしまう。


ノストラダムスの予言の1999年12月31日の
地球滅亡説もあった。

そしてそれは外れて今も地球は存在してる。

1999年12月31日のあの日も今と同じように
考えていた。


『もし、今日、地球が無くなって、
人生最後の日だとしたら幸せかな』って。


ノストラダムスの予言もマヤ暦も何も、
真っ正直に信じて不安になる必要はない。


ただ、いい機会だと思う。


それはこういうことだ。

『もし、今日が人生最後の日だとしたら、
私は今の暮らしで今やっている事で幸せ
な顔して終れるかな』

と考えてみるいい機会だということ。


スティーブ・ジョブズスタンフォード
大学の卒業式の時に言っていたではないか。


『毎日今日が人生最後の日かもしれない、
そう考えるとすれば、いつか必ずその考え
が正しい日が来る。』と。


いつか必ずやってくる『人生最後の日』
その日になって激しく後悔することだけは、
絶対に避けたい。


その為に、時々考えてみることだ。


『もし、今日が人生最後の日だとしたら、
私は今の暮らしで今やっている事で幸せ
な顔して終れるかな』と。


もし、その答えがNOだったなら、

今日が終ってもし無事
に奇跡的に明日が
ちゃんとやってきたら、

それはきっと新しい世界の始まりなのかも
しれない。


胸張って、『YES!』と言える暮らしを
創っていこうとまた強く思う。

全く異なる文化圏で育った人達CR078

f:id:kmikiwo:20210521120934p:plain


親に先生に会社に豊かな社会の環境に国に
依存しきった価値観でこれまでを組み立て
てきた【井の中の蛙】だったということを
痛感したわたしは【依存しきった価値観】を
打ち壊す為に渡米したが、すぐに強制送還
されてしまう。

それでも、そのままこの先ずっと逃げ続け
てLoser(負け犬)として生きていく道を
選択したくなかったわたしは再度渡米する。

新しい行き先はアメリカのテキサス州
キングスビルという片田舎の街にある大学。

そこで出会ったのは、全く異なる文化圏で
育った人達だった。

様々な国の様々な人種の人達と出会った中
でわたしがよく覚えている人が一人いる。

それは、バングラデシュという国からきた
ムハタグ(確か・・・)さんだ。

このムハタグさんがアメリカに来た目的は、
英語と同時にagriculture(農業)を学ぶ
ためだそうだ。

わたしが大学の構内でカフェテリアの場所が
分からずに迷っている時にムハタグさんが
声をかけてくれて、そこから幾つか共通項
があって仲良くなった。

その共通項というのは、年齢が同じ25歳と
いう事と渡米した時期が同じ日だという事、
そして、バングラデシュという国の国旗が
緑地に赤い丸で日本と似ているということ。

ムハタグさんの話す言葉はベンガル語
英語は片言のつたない英会話。


出会ったこの時期のムハタグさんの英会話
はわたしより酷いんじゃないかなという程度。


そんな状況でジェスチャーも取り入れつつ、
英語の発音が分からないから辞書を引き、
筆談しながらコミュニケーションを取って
いった。

その中で分かったことは、ムハタグさんが
渡米した真の目的はムハタグさんが住んで
いる村にアメリカ式の農業を学んで持ち
帰って、村の皆を救うことだった。

このバングラデシュという国は国民の75%
を超える人達が1日2ドル、(1997年当時、
約240円)未満で暮らしているという。

世界の基準の約10分の1の経済状況だ。


そんな貧しい経済状況下でのムハタグさん
の渡米・留学となるとそれはもうかなり
無理してきたと思われる。


実際、ムハタグさんと数日行動を共にして
わかった事が幾つかある。


それは、わたし達留学生が食事を取る場所が、
大学の構内に設置されているカフェテリア
で、朝も昼も夜もここで食べる。


朝食は3ドル(360円)、
昼食が4ドル(480円)、
夕食が6ドル(720円)

だったと記憶している。
大学の食堂としてはまぁ普通だ。


知り合いもいない、日本人もほぼいない
そんな国の大学で出会った友人なわけ
だから当然、食事を一緒に取ろうと誘う。

だけど、ムハタグさんが食事を取るのは
一日一回だ。

それも朝食か昼食がほとんどだ。

そこで一日分の栄養を摂取する。

その他の食事は食パンと水だけだ。

それでも本当にギリギリだという。
だからカフェテリアで食事を取らない
日も珍しくない。

そしてムハタグさんの持ち物にもわたしは
とても興味を抱いた。

それは、カバンや筆記具。

ノートは質の悪い薄いザラザラした紙。
ペンはアメリカで買った安いボールペンで、
書いている途中にインクが出なくなる。

そしてカバンは空港でもらった紙袋

ムハタグさんの部屋に入ってみて驚いた。

衣類もほとんど無く、机の上に食パンが
ポツンと置いてありその他には娯楽品と
呼べるものは皆無だった。


使っている道具は粗悪品で
まともな食事は日に1回、衣類も無く、
娯楽もほとんどないそんな劣悪な環境下
だけど、ムハタグさんは必死で勉強を
していた。

一日の睡眠時間は3時間から4時間。


それは傍で見ていたわたしには良く分かった。


「故郷では多くの人が貧困に喘ぎ苦しんで
います。」

「妹も病気になったけど治療が受けられず
に苦しんで死んでしまいました。」

「だから僕がこの国でちゃんと農業を覚え、
故郷に帰ったら農業を広めて皆が食べて
いけるようにしたいのです。」


ムハタグさんはわたしにそんな事を語って
くれた。


この時に受けた衝撃は今も脳裏に焼きつい
て離れない。

 

 

 

 

to be continued

 

新たなる旅立ちCR077

f:id:kmikiwo:20210521120934p:plain

渡米して直ぐに知ることになった、
親に先生に会社に豊かな社会の環境に国に
依存しきった価値観でこれまでを組み立て
てきた【井の中の蛙】だったということ。

そんな【依存しきった価値観】で考えても、
いい方向性は見つけられない。

そんな時にわたしは【依存しきった価値観】
を打ち壊す為に渡米したがすぐに強制送還
されてしまった。


このまま自己正当化をして社会の末端で、
Loser(負け犬)としてひっそり生きるか、
それとも、もう一度もがいてみるか。

この選択を迫られたわたしはもう一度、
もがいてみることにした。

その為に必要なスキルは何か?
必要なモノは何か?お金は幾らかかるか?

準備も大切だ。

1997年2月はそれらを徹底的に調べた。


そして、アメリカはテキサス州の片田舎の
キングスビルというところにある大学に
留学をする事に決めた。

留学費用は何とか貯金で捻出が出来たが、
その先の生活費の心配はあった。

だけどそんな事はたいした事じゃなかった。

そんな事よりもっと大切なものを失う事の
ほうが何倍も何百倍も辛かった。


『ここで引いたらこの先ずっと逃げ続け
てしまうLoser(負け犬)として』


それだけは絶対に避けたかった。

起こった機会を非難否定して自己正当化を
する事も嫌だった。

そして1997年3月の初めにわたしは再度、
アメリカに旅立った。

次の目的地はアメリカはテキサス州
片田舎の街キングスビルにある大学だった。

成田空港からダラス空港まで行き、
そこからコーパスクリスティ空港に行って、
バスで3時間ほど揺られて辿り着いたその
テキサス州にある片田舎の街は、
ロサンゼルスとは違いもの凄く田舎だった。


街についてまず驚いたのは目の前に、
馬車がとまっていたことだ。


近くにお店など皆無でそのままバス停から
何もない道路をひたすら歩き学校の事務局
に向かった。

そこで入学の手続きを済ませると、
ドミトリー(共同生活する寮)の部屋の鍵
を渡されて寮に向かった。


その日はとても疲れていたので寮の部屋で
眠り、翌日から学校の授業に出た。

そこで観た景色はこれまで一度も観たこと
も無いような不思議な景色だった。


それは、アメリカ人やアラビア人や
スペイン人、タイ人に香港人に韓国人、
中国人に、バングラディッシュ人、
アルゼンチン人など様々な国の人達が居た。

みんなここにそれぞれ目的を持って来て
いたのだ。


ある人は英語を学びに、
ある人はアメリカ文学を学びに、
ある人はコンピューターを学びにと。


それぞれがちゃんと目的を持って、
アメリカという国にやってきていた。


そこで、わたしは『シンガポール人』として
皆に紹介された。


それは顔が黒いからなのか・・・


シンガポール公用語は主に英語と中国語
とマレー語らしく、まずアメリカ人が英語
で挨拶をしてきたが、わたしの「ハロー」の
発音が心もとなかったらしく、中国人が
中国語で何か話しかけてきたが、分からず、

シンガポール?」と疑問形で尋ねられた。


さすがにわたしも何か勘違いしているという
ことは分かったので「ノージャパニーズ」
と返すと皆が一様に驚いた様子で、


「OH! Japanese!」


と口を揃えて言ってきた。


そして、スペイン人が何か片言の英語で
喋ったが、わたしは全く理解出来なかった。

そんな時に横に居た中国人が紙に漢字で、
【髪型】と書いてくれた。


その中国人は日本語に中国由来の漢字が
使われていることは何度か日本に訪れた事
があるらしく知っていた。つまり、
コミュニケーションの取り方を知っていた。


そして、その時は理解出来ず、後になって
分かったがその時にスペイン人がその時、
わたしに言っていた事は、


『わたしは日本人なら何故?チョンマゲを
していないんだ。』

ということらしかった。

辺境の島国で江戸時代までずっと鎖国
していて明治になってようやく開国した
国の事なんて情熱で生きているスペイン人
にちゃんと伝わっているわけがない。

 

そんな感じでスタートしたわたしの新しい
アメリカンライフだった。

 

 

 


to be continued