川村 みきをのメモ帳

日々のアウトプットをメモっています。

進むか戻るかの二択CR076

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覚悟を決めても進まない・進めない。
気持ちが盛り上がっただけで続かない。

今やっている事に意味はあるのか知りたい。

でも、知ってしまうのも怖い。何故なら、
今の価値観をDelite・削除したくないから。

そうして【見て見ないフリ】して、
時が過ぎるのをただ待っている。

やがて『このままじゃ何も変わらない』と
いうことに気づき自身をアップグレード
しようと今やっていることをガムシャラに
こなしていく。

心のどこかで『何か違うかも・・・』と
思っても、もっともらしい理由を並べ、
それを人に自分自身に言い聞かせて。

そしてそんな状態はとても脆く、
誰かの一言で簡単に崩れ去ってしまった。

次にわたしが選択したのは価値観そのものの、
【立っている場所を変える】ということ。

それが渡米してボランティアをすることだ。

しかし渡米して直ぐに知ることになった、
親に先生に会社に豊かな社会の環境に国に
依存しきった価値観でこれまでを組み立て
てきた【井の中の蛙】だったということ。


結論から言うと渡米してから1ヶ月足らず
で日本に帰国をすることになったのだ。


アメリカで生活するのに英語が話せない。

アメリカという国で自己主張が出来ない。

コミュニケーションが取れない。

そしてそれらを克服しようとする気概が
持てなかった。


今になってわかるのだけど、その原因は、
わたしが1997年1月4日に渡米したその時点で、
わたしが幼い頃よりずっと抱いていたGOALの

【日本中に行きたい世界を見たい】
が達成されてしまったからだ。


GOALに辿り着いても走り続けるランナーは
いない。

だから渡米した時点で無気力になって
しまったのだ。

そして英語を学ぼうとしなかったし、
自己主張もしなかったし、
コミュニケーションも積極的に取ろうと
しなかった。


【日本中に行きたい世界を見たい】という
わたしのGOALは既に達成された後だからだ。

よくオリンピックに出ることが夢で、
これまで辛い練習にも耐えてきた選手が、
オリンピックが終わった後に気が抜けた
かのようになる選手が多いのはこのためだ。


初めての海外、それもアメリカはロス。
単なる観光旅行じゃなくて、ボランティア。

そしてその為に建築を学ぶ、それも英語で。

食べるものはアメリカの食事。

そしてわたしは英語が喋れない。
アメリカの食事が口に合わない。
コミュニケーションを取る気がない。

もっとも最悪なのはGOALを達成して、
気が抜けちゃっていることだ。


この後は当然の如く、クビになった。


それにしても、ボランティアをクビに
なるって結構キツイ・・・

1997年1月の末に日本に強制送還させられ
てしまった。


日本に帰国しても誰にも会いたくなかった
けど、何もしないわけにはいかないので、
何とか以前の環境に戻ろうとした。


以前相談した旅行の添乗員の派遣会社の
3つ上の先輩に相談した。

上から目線でモノを言われた。


「なっ、俺の言ったとおりだろう。」

「所詮、俺達みたいな凡人がアメリカに
行くとかそんな夢みたいな事を言うから
こんな目にあうんだよ。」

「これに懲りたらもう二度とそんな事を
言わないことだな。」


それでも、1997年2月初旬から元の仕事場
に戻れるように手配してくれた。


失意のどん底だったわたしもこの時、
その配慮が嬉しかった。


1週間ほどゆっくり思いに耽った。


『やっぱり日本が一番だ』


『身の丈に合わない事は危険だ』


『あのままアメリカに居たら
病気になってたかもしれないな』


アメリカは恐い国だったな』


『英語が話せるかどうかは事前に
ちゃんと会社が確認するべきだったよな』


『わたしは全然悪くないよな』


『大阪の友達にはなんて言おうかな精一杯
やったと言えば称えてくれるだろなぁ。』


こんな事を考えているうちに、
情けなくて死にたくなってきた。


こんな生き方なんてカッコ悪すぎる・・・


自分に言い訳して生きていくなんて、
絶対に嫌だ。


[SourGrape~すっぱいブドウ~]の原理で、
実っているブドウを取れなった狐が、
「どうせあのブドウはすっぱいんだ」と
言ったまさにあの心理だ。


実力不足で手に入れられなかったものを
非難し否定するあの心理そのものだ。


そう思ったら、いてもたっても
居られなくなり、海外留学の情報誌を
幾つか買いに行き海外留学について調べて、
留学専門の会社に電話をかけていた。

 

 

 

to be continued