川村 みきをのメモ帳

日々のアウトプットをメモっています。

新たなる旅立ちCR077

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渡米して直ぐに知ることになった、
親に先生に会社に豊かな社会の環境に国に
依存しきった価値観でこれまでを組み立て
てきた【井の中の蛙】だったということ。

そんな【依存しきった価値観】で考えても、
いい方向性は見つけられない。

そんな時にわたしは【依存しきった価値観】
を打ち壊す為に渡米したがすぐに強制送還
されてしまった。


このまま自己正当化をして社会の末端で、
Loser(負け犬)としてひっそり生きるか、
それとも、もう一度もがいてみるか。

この選択を迫られたわたしはもう一度、
もがいてみることにした。

その為に必要なスキルは何か?
必要なモノは何か?お金は幾らかかるか?

準備も大切だ。

1997年2月はそれらを徹底的に調べた。


そして、アメリカはテキサス州の片田舎の
キングスビルというところにある大学に
留学をする事に決めた。

留学費用は何とか貯金で捻出が出来たが、
その先の生活費の心配はあった。

だけどそんな事はたいした事じゃなかった。

そんな事よりもっと大切なものを失う事の
ほうが何倍も何百倍も辛かった。


『ここで引いたらこの先ずっと逃げ続け
てしまうLoser(負け犬)として』


それだけは絶対に避けたかった。

起こった機会を非難否定して自己正当化を
する事も嫌だった。

そして1997年3月の初めにわたしは再度、
アメリカに旅立った。

次の目的地はアメリカはテキサス州
片田舎の街キングスビルにある大学だった。

成田空港からダラス空港まで行き、
そこからコーパスクリスティ空港に行って、
バスで3時間ほど揺られて辿り着いたその
テキサス州にある片田舎の街は、
ロサンゼルスとは違いもの凄く田舎だった。


街についてまず驚いたのは目の前に、
馬車がとまっていたことだ。


近くにお店など皆無でそのままバス停から
何もない道路をひたすら歩き学校の事務局
に向かった。

そこで入学の手続きを済ませると、
ドミトリー(共同生活する寮)の部屋の鍵
を渡されて寮に向かった。


その日はとても疲れていたので寮の部屋で
眠り、翌日から学校の授業に出た。

そこで観た景色はこれまで一度も観たこと
も無いような不思議な景色だった。


それは、アメリカ人やアラビア人や
スペイン人、タイ人に香港人に韓国人、
中国人に、バングラディッシュ人、
アルゼンチン人など様々な国の人達が居た。

みんなここにそれぞれ目的を持って来て
いたのだ。


ある人は英語を学びに、
ある人はアメリカ文学を学びに、
ある人はコンピューターを学びにと。


それぞれがちゃんと目的を持って、
アメリカという国にやってきていた。


そこで、わたしは『シンガポール人』として
皆に紹介された。


それは顔が黒いからなのか・・・


シンガポール公用語は主に英語と中国語
とマレー語らしく、まずアメリカ人が英語
で挨拶をしてきたが、わたしの「ハロー」の
発音が心もとなかったらしく、中国人が
中国語で何か話しかけてきたが、分からず、

シンガポール?」と疑問形で尋ねられた。


さすがにわたしも何か勘違いしているという
ことは分かったので「ノージャパニーズ」
と返すと皆が一様に驚いた様子で、


「OH! Japanese!」


と口を揃えて言ってきた。


そして、スペイン人が何か片言の英語で
喋ったが、わたしは全く理解出来なかった。

そんな時に横に居た中国人が紙に漢字で、
【髪型】と書いてくれた。


その中国人は日本語に中国由来の漢字が
使われていることは何度か日本に訪れた事
があるらしく知っていた。つまり、
コミュニケーションの取り方を知っていた。


そして、その時は理解出来ず、後になって
分かったがその時にスペイン人がその時、
わたしに言っていた事は、


『わたしは日本人なら何故?チョンマゲを
していないんだ。』

ということらしかった。

辺境の島国で江戸時代までずっと鎖国
していて明治になってようやく開国した
国の事なんて情熱で生きているスペイン人
にちゃんと伝わっているわけがない。

 

そんな感じでスタートしたわたしの新しい
アメリカンライフだった。

 

 

 


to be continued