川村 みきをのメモ帳

日々のアウトプットをメモっています。

『利益』と【快楽】の先にあるものCR035

『恐怖』や【痛み】がなくなり『利益』と【快楽】を感じなくなった先に

わたし達は親や先生や友人達や、テレビやゲームなどから少々過剰気味な『恐怖』や【痛み】を与えられて育ったということ。

だけどこれは、悪意無き愛情だ。

しかし、わたし達の中にはある程度の年齢になってもそういった『恐怖』や【痛み】から過剰に逃れようとする【反応性】だけで生きてしまう人が一定数いるのもまた事実。

そして、わたし自身もそんな【反応性】だけで生きていた時期がある。

そしてやっかいなのが、『恐怖』や【痛み】には慣れてしまうのだ。

人は『恐怖』や【痛み】には慣れてしまう

例えば、電車で騒いでも悪い大人にはさらわれないし、課題が多少遅れても特にお咎め無い、アルバイトに遅刻しても怒られなかった、待ち合せの時間に遅刻しても問題なかった、道で人にぶつかっても特に怒鳴られなかった、人にお世話になって何もお返ししなくても他人とコミュニケーションを取らなくても、特に怒られないし別に何とも無い。

こうなると【反応性】だけで生きている人には中途半端な『恐怖』や【痛み】は無効になってしまう。

だから、

平気で電車の中で携帯電話で話す人が居るし、待ち合せの時間に遅れて来るし、いろいろとこちらがお世話しても、突然連絡が取れなくなる人も居るし、物を貸してもお礼も無いし返しもしない人が居るし、もう本当にキリが無い。

傍から見ていると何て身勝手な人なんだと眉をひそめたくなるが、当人はいたって普通でいる。

【反応性】だけで生きている人で、『恐怖』や【痛み】が無効化していることは、言わばモラルが崩壊しているということに等しい。

では、そんな【反応性】だけで生きている人が『恐怖』や【痛み】ではなく他に動く源泉とは何があるのか?

『恐怖』や【痛み】が無効化した時に人が動く源泉

 

それが『利益』と【快楽】だ。

【反応性】だけで生きている人にとって、『利益』と【快楽】はある程度効果がある。

例えば、まだ幼稚園にあがる前の幼少の頃、何かやってお母さんやお父さんやおばぁちゃんに褒められた体験が誰でもあると思う。

そしてその『褒められる』という体験に【快楽】を感じると、もっとその【快楽】が欲しくなる。

そして更に褒められる事を進んでしようとするだろう。

実はこの瞬間からも人は【反応性】を発動する。

赤ん坊だった頃は褒められることや、怒られることは全く意識していない。

赤ん坊だった頃はただピュアな【感受性】だけで生きているので、大人の怖い顔や優しい顔を見ているだけだ。

そしてそれを素直に怖がり泣き、素直に幸せを感じて笑う。

そこから少し成長して【感受性】だけで生きていくことにNOを突きつけられた時、【反応性】を発動している。

そして『恐怖』や【痛み】を避けるべく行動し『利益』と【快楽】を求めていく。

そして褒められるという【快楽】の為に「いい子」でいようとする。

“良く出来ました”の花マルのスタンプ

幼稚園に上がると幼稚園の先生が園児の一人一人を褒める事が物理的に難しいので、

「“良く出来ました”の花マルのスタンプ」を押す。

そうなると、今度は「“良く出来ました”の花マルのスタンプ」をたくさんもらおうと頑張るのだ。

そして次は小学校に上がり、「“良く出来ました”の花マルのスタンプ」ではなく「テストでいい点数」を取ることで、親に褒められるという【快楽】に加え、友達より優位に立てるという【快楽】を知る。

【反応性】だけで生きている人にとっては、

怒られる、馬鹿にされるといった『恐怖』や【痛み】を避けるべく勉強し、褒められる、優位に立てるといった『利益』と【快楽】を求め勉強する。

つまり【反応性】だけで生きている人にとって『何の為に勉強しているのか?』という問いの答えは、『恐怖』や【痛み】を避け、『利益』と【快楽】を追求する為

というのが正解になる。

もちろん、こんな事をまともに答える人は少ない。だいたいが「将来の為」という事を言うだろう。

【反応性】だけで生きている人が生き辛い社会に

これまでの時代なら、【反応性】だけで生きている人が学生から社会人になっても何とか生きていける場所があったのでそれでも何とかなってきた。

だけど、時代が変わってしまい、これまでのやり方では生きていけなくなった。

簡単に言えば、

インターネットの発達や社会ネットワークが整備されて情報が行き届き過ぎて、これまでのような単純な『恐怖』や【痛み】を感じられなくなった。今の時代の子供に、「電車で騒ぐと鬼にさらわれる」と言ったらきっと笑われるだろう。

そして、学校の教育に親が口を出すようになり、先生が簡単に生徒に『恐怖』や【痛み】を与えられなくなった。

更に家庭でも親が子供を叱らなくなった。

時代は豊かになり過ぎて、人がモノを欲しなくなった。

特にお金が無くても何とか生きていける、親に食わせてもらえるし、単純なバイトを続けていれば生活出来る。

死ぬほど欲しいモノが無くなった。

つまり『恐怖』や【痛み】を感じなくなり、死ぬほど欲しいモノが無い為、『利益』と【快楽】を得る為の動機が薄れていったということだ。

そんな情報が行き届き便利で快適で、死ぬほど欲しいモノが無い時代に、【反応性】だけで生きている人が今求めているのはいったいなんだろうか?