川村 みきをのメモ帳

日々のアウトプットをメモっています。

高い【感受性】を持つ人達CR026

クリエイティブ・アボイダンス/創造的回避が発動しなかった3人は起こった出来事を、、

事実として捉えたのではなく、感覚として捉え【実感】した。

それはこの3人が他の人に比べて、高い【感受性】を持っていたから。

高い【感受性】を持っていたから、相手が受けている悲しみ、痛みといった感情を自らが感じとることが出来たのだ。

後にわたしがこの【感受性】の存在に気づき、「相手のことを感じとる」とはどういうことなのかを聴いたことがある。

「相手のことを感じとる」ということを表現するなら、実際にそこには居ない相手がまるで目の前で泣いているかのように 感じるんだという。

この領域まで【感受性】を高めていけば、見えないものを見ることが出来るのだろか?

そもそも、この【感受性】とはいったい何なのか?

【感受性】とは、一言で言えば、

『気配を感じとる能力(ちから)のこと』

気配(けはい)とはつまり気を配ること、

つまり【感受性】とは相手が何に気を配っているのかを感じとり、相手が気を配っている先を見てどんな感情を抱き何を考えるのか、そこからどんな行動に出るのかを一瞬のうちに察する能力のことをいう。

空島スカイピアではこれを心綱(マントラ)と呼ぶ。

そしてその【感受性】を高めていけば、世界がどう動いているのかをとても敏感に正確に察知していける。

それは情報とも知識とも経験則とも違う、『気配を感じ取る能力(ちから)』。

高い【感受性】を持つ人には、どれだけ頭が良く論理的な思考を持って挑んでも絶対に敵わない。

実際にわたしは最後の最後まで、この3人には敵わなかった。

わたしがどれほど理にかなったビジネスの計画を描いて、論理的に進めようとしても、激変するこの時代においてそれは本当に悲しいほどに無効化していた

これまでベンチャー企業や企画制作の会社などでビジネスをつくって動かす事をわたしは10年以上かけて学んできたのだが、それがこの時代においてはむしろ邪魔に感じることがある。

つまり、これまでの経験則や知りえた情報をもとに物事を判断して進めていくというこれまでなら上手くいっていた事が、この時代においては全く通用しなくなった。

これは制作の世界を見ても分かる。

わたしが制作の世界に足を踏み入れたのは、2004年の夏の事。最初はWeb制作会社で企画の仕事をしていたのだが、その頃見た作品はなんていうか、まだわずかに『色』があった。

つまり、それぞれの『個性』が出ていた。

それが、時が過ぎわたし自身がそういった、制作の仕事を請け負うようになって見た作品の多くは『色』が無くなってしまっていた。

以前はそれぞれの『個性』を出していても、まだ世の中がそれを受け入れる余裕があった。

でも、その余裕が無くなり均一的なもので無難なモノを人が求めだした時、制作の世界は崩壊していく。

つまり同じような似た作品が世に出回るから、いちいち制作していく事がなくなる。

素材集を使えばいいし、一度制作したものを使い廻せばいいわけだ。

ただ、そんな状況に世の中がなっていても、自らの『色』を失わないで作品を制作出来る人達がいることも知った。

それが、高い【感受性】を持つ人達だ。

前にも言ったが高い【感受性】を持つ人は、いつも意識が外を向いている。

意識が外を向いているから人が、世界が何を欲しているのかを全身で感じている。

逆に【感受性】より【知性】が勝る人は、いつも意識が内を向いている。

だから、今回のsbccのクレームが起こった時、「悪いことをしてしまった・・・」という思考が働き【約束は守らなければいけない】というプロセスに発展したわけだ。

そして、[ have to ]な事柄には必ず、クリエイティブアボイダンス(創造的回避)が発動する。

だから、『しなければいけない』と考えれば考えるほど、思えば思うほど出来なくなっていき、自らが自らがやることを邪魔していく。 そして、頑張って気を紛らわせて必死になって実行しようとするわけだ。

もう一つこんなタイプの人がいる。

それは、【感受性】を高めようともせず、【知性】を磨こうともしない人。

こういった人達は起こった出来事に対して、ただ反応しているだけだ。

今回のsbccのクレームが発生した時に見事にこの三つのタイプの人達に別れた。

一つが3人の高い【感受性】を備えた人一つが【感受性】よりも【知性】が勝る人

そして、この【感受性】も【知性】も低いままの人。

こういったクレームなどの有事の際は、普段は見えない人間の本質がよく見える。

次はこの三つのタイプについてお話を進めていこう。