第一線を越えてしまった時CR052
気持ちの奥底で何かが、
「ダメだ」
「やっちゃいけない」
「やってしまうと私自身が壊れる」
とサインを出している事それが例えどんなにちっぽけな事でも、無視してやってしまう。
越えてはいけない一線を越えると、何かが音を立てて崩れ始める。
その瞬間からゆっくり時間をかけてじわりじわりと心が色褪せていく。
そんな気持ちの奥底から聞こえていた声を無視した自分を人は愛せなくなる。
自分を愛せないから人は劣等感を感じて、「私なんて…」と自分を卑下していく。
やがて【感受性】を失い、【知性】を奪われ残った【反応性】だけで生きていくことになる。
川村がこの『越えてはいけない一線』を越えた時は19歳の時に大阪で一人暮らしをしながら旅行の専門学校に通っていて、その時にやっていたコックのアルバイトの時だったように記憶している。
川村がコックのアルバイトをしていた店はカラオケつきのバーで経営は赤字だった。
その時の店長とよく食材の買出しを近くの大型スーパーに行っていたのだが、お店のメニューに無い食材を頻繁に購入していた。
記憶に残っているのが、結構高めのブランド物の鳥のレバーを買って来て従業員用のご飯として食べた記憶がある。
他にもお刺身やステーキ肉などを頻繁に食べていた記憶がある。
時には仕込みとかサボってその店長とお店の経費で外に食事にも行っていた。
赤字経営のバーで従業員はブランド物の鳥のレバーやお刺身やステーキ肉を食べたり、従業員用の食事を外食で済ますなんて明らかに自殺行為である。
そのバーは平日はお客さんが0組なんて日もよくあった。
その時は食材が余るのでよく食べていた。
川村はその時、確かに何か違和感を感じてはいたけど、店長がそうしているんだし、川村はアルバイトで言われた事をやっているだけだから、別に悪くない悪くない。
といつも言い聞かせていた。
そのお店は店長とオーナーがいつも仲が悪かった。
オーナーが買出しに行ったスーパーのレシートを持ち出してお客さんが0組の店内で店長と口論している場面をよく見かけた。
その時に店長が言っていたのは、
「新メニューの開発です。」とか、「お客さんからのリクエストで」とか、「他店のリサーチです」とか。
多分、オーナーからレシートにある「ブランド物の鳥のレバー肉」や「お刺身」や「ステーキ」を何故?購入したのかを追及されて、言い訳として店長は、「新メニューの開発です。」とか、「お客さんからのリクエストで」とか、「他店のリサーチです」とか、そんな事を言っていたんだろう。
川村はその時は何か『聞いちゃいけない』という思いが駆け巡り、厨房の隅で時が過ぎるのをじっと待っていた。
やがてオーナーが店を出て行くと、店長はお店にあるお酒を出してきて、カクテルを作りよく飲んでいた。
そして川村にも勧めてくれてよく飲んだ。
川村は専門学校が終わってからそのバイトに行っていたのだが、シフトに入るのも時間はほとんど自由だった。
専門学校が16時に終わって特にすることが無かったらそのままバイトに入って、タイムカードを切っていた。
学校の友達と遊んだりしたら、19時頃にバイトに入ったりもした。
そしてアパートに帰るのはいつも深夜の2時とか3時とかだった。
それは営業時間中やその後にしょっちゅうお店のお酒を店長に飲ませてもらって酔っ払って帰っていたからだ。
ある日、アルバイトに入って厨房で仕込みをやっているとお店の奥にあるスタッフが着替えなどをするスタッフルームから、『バンッ!ゴンッ!』という音が聞こえてきた。
その時はお店は準備中でお客さんは居なくて店長もお休みを取っていてお店は川村と途中で顔を出したオーナーの二人だった。
オーナーは最初、店のカウンターに座り、どこかへ電話をしていたようだったが、その後、スタッフルームに入っていった。
そしてそのスタッフルームから、『バンッ!ゴンッ!』という音が聞こえてきた。
少し恐怖を感じたが、それでも恐る恐るスタッフルームの扉を開けてみるとそこには、65歳になるオーナーがスタッフのロッカーを拳で殴ったり、頭をロッカーに打ち付けていた。
普段は川村達アルバイトには気のいいおじいちゃんという立ち振舞いをしているそのオーナーがこの時ばかりは目が殺気だっていた。
川村が「どうしたのですか?」と問いかけても答えはなくただ、ロッカーに頭をつけたままうなだれていた。